人口密度は発明の母である。少子高齢化の先にある文明の衰退
人口密度が生み出す画期的な発明というものがある。
ここに書かれているように、ラブホテルは日本の住宅事情、引いて言うなら日本の人口密度の高さが生み出した発明品と言える。
かつての日本の住宅は、少ない部屋を多目的に使っていた。日中は居間、食事のときはちゃぶ台を出して食堂、夜は布団を敷いて寝室。
「こんな空間に子どもがいて、さらに親も同居……。夫婦が二人きりになれる場所は家の中にありませんでした。一体いつ子作りができたのでしょうね?」
このように、必要は発明の母ではないが、人口密度は発明の母と言えるケースが歴史的には多々あるらしい。
世界的、歴史的に見て、人口の密度と絶対数が増えるにしたがって、その社会の仕組みや文化的なレベルは進歩してきている。
例えば、かつて人類は狩猟採集を生きる糧としていた。
そこから徐々に増える人口を養うために、安定的な食料生産の方法を求めて農耕が編み出された。
農耕が営まれるようになると、その安定した食料生産はさらに多くの人口を養うことができるようになり、社会に労働力の余剰が生まれる。
そうした余った労働力は徐々に専門特化し、食料生産以外の文化的な労働に従事したり、富を再分配するための指導者層になったりする。
こうして社会は家族単位、親戚単位の部族社会から、中央集権的な社会、国家へと進化していくことになる。
これらは、主にユーラシア大陸を中心に起こった、人口増加に伴う文明の発展だが、反対に、世界各地のいわゆる先住民と言われる人々の社会では、そういった当たり前の進歩が1万年以上にわたって行われてこなかったケースもある。
オーストラリアの先住民族アボリジニ―などもその典型で、オーストラリア大陸にヨーロッパ人が入植するまで、文明の発展どころか農耕も始めることなく、狩猟採集の生活を送っていたらしい。
これにはオーストラリアという大陸の広さに対して、先住民たるアボリジニーの絶対数が少なく、その人口密度の低さから農耕の必要性がなかったということが大きな理由の一つに挙げられる。
人口密度と文明発展のスパイラルが起こらなかった社会というのも歴史上実在するのである。
このように、人口の増加、特に特定地域における人口密度の増加は、文化、技術の発展につながる重要な要素である。
それなのに、今日本では、いや多くの先進国では少子高齢化による人口減少が続いている。
ご存じのとおり、日本の首都、東京は世界一の人口密度を誇る都市である。
戦後、日本が急速に発展して先進国の仲間入りをできたのも、その国土の狭さが生み出す人口密度の高さと無関係とは思えない。
狭い田畑、狭い街、狭い家、そんな悪条件を乗り越えるために、農業の技術は進化し、食料加工の技術は進歩し、画期的な電化製品が生み出され、弊害である環境問題にも対策が打たれてきた。
今後この国を襲う人口の減少は、そのような歴史的背景から考えても、日本の凋落を示唆する危険な兆候であると見ることもできる。
だから、少子高齢化は早急に解決しなければならない国家レベルの問題であるのはやはり間違いない。
それは、「若者が減ったら老後の年金払ってくれる人がいなくなるし」などといった短期的、表面的な問題だけではないのである。
長期的にみると、日本という国家の文化的、技術的な水準を減退させる可能性がある、極めて大きな問題なのだ。
ぜひ、そんな広い視野を持って政治家の皆さまには、この国の行く末を左右する少子高齢化問題の解決に取り組んでほしいものである。