面白きこともなき世を考えて

子育てと競争戦略とゲームと日々のあれこれを適当に。

自己評価と客観的な評価の逆転現象。あるいは、ホリエモンの本を読んだことがない自分へ

台風の影響で電車が遅れまくり、超満員で苦しんでおります。

暇なので久々にブログでも書くことに。


ちょっと前に思ったんだけど、何かの作品や店や人物を評価するときに、制作者、運営者、本人による自己評価と第三者による客観的な評価のどちらが正しいのか、ということ。

まあそもそも評価に正しいも正しくないもないとは思うが、そこはちょっと目をつぶる。


例えば、飲食店の評価なら食べログを始めとする第三者による評価システムが一定の信頼を得ています。

お店そのものによる宣伝や広告よりも利害関係のない第三者による評価が好まれているようです。

映画とかもそうですよね。

CMとかでよく映画を見た直後の人たちの、◯◯最高!とか流れてますけど、あれは製作側がお金出して作ってるものですから、良い評価だけを抜粋したものですし、そもそもあの人たちが本当にその映画を見ているのか怪しいもんです。

この辺りにステマが嫌われる理由がありますね。

信頼できると思っていた第三者の評価が、実は利害関係者による宣伝だったと。

裏切られた感なんでしょうか。



ところが、モノでなくヒトの評価になると第三者の評価は途端に価値を失うようです。

と思ったのはTwitterのタイムラインを眺めていたら、堀江貴文さんの自伝?を読んだ人たちのツイートが流れてきたから。

本を読んでないので内容がわからないのですが、堀江さんの考え方とかに共感している人たちのつぶやきで溢れていました。

不思議ですね。

モノとか店の評価だと本人からのアピールはあまり信じないのに、人になると急に本人の発言を信じてしまう風潮があるように感じます。

この違いはどこから来るのだろう?



可能性として考えられるのは、まず堀江さんはマスコミとかメディアに偏向報道されて、抹殺された感が強いので、有名人に対する第三者の評価を伝えるテレビなりネットといった媒体が信じられず、逆説的に本人からの言葉の価値が高まっているという説。

もう一つは、そもそも人物評価というのはその人が何を考えて行動したか、ということが重視される傾向にある。

なので、その人がそのとき何を考えていたかなんて、本人しかわからないことだから自分語りが重宝されるという可能性。

反対に、飲食店とかの評価では、シェフやオーナーの心情なんてどうでもよくて、美味しかったかどうかがより大事ですからね。

モノはその結果というか成果、価値が評価され、ヒトは過程やプロセスが評価されるのかもしれません。

日本だけなのかな?


最後に、モノだろうとヒトだろうと、自分が好きなものの言葉は無条件に信じてしまうという可能性もあります。

堀江さんの話も、もともと堀江さんのことを本を買ってしまうくらい好きだから、その内容に関しても無条件に信じる。

初めて行くお店は口コミを大事にするけど、ファンになったあとはお店からのオススメメニューも信じる、みたいな。

どれもあり得そうですね。

単一の理由ではなく、これらが複合的に絡み合ってモノの見方を形成しているんでしょうね。



今日書きたかったことはそれくらい。

最後に、とりあえずもう筆者の心情を問う問題はやめよう。




お金はいつも正しい (双葉文庫)

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